大きな存在の一部になる

ここ数日、気分がなぜか落ち気味でした。
気温差に弱いので、急に暑くなったせいかなぁ~なんて思いながらも、色々ネガティブ要素がフツフツと出てきました。

過去に起きたことを想起させるようなことが出来事があったりして、「またか…」と思いつつも、今これを体験させられていることには必ず意味がある。
それは、「この感情を自分の中でちゃんと消化しなさい」ということだと私は理解しました。

私は、本当に「結果主義」というものに翻弄されていた。
し、まだ完全には抜け出せていないのかなとも思います。

そして、何事においても「上を目指す」という良く言えば向上心。でも、上があるからには下が必ずある「上下」のある世界。
これが、人との関係性になると「他人と比較し、上下をつけよう」とする意識、考え方。
これが自分を一番苦しめてきたことだと理解しつつも、ここにまた飲み込まれそうになる。何度も何度も。
悔しい思いをし、泣いてばかりいるのはもうイヤだ。

でも、本当に自分がいたい世界はここではない。
ということが、自分の中で明確になっている今、そこから自分の感情を意識的に変えていくようにしている。

それは、「イヤな感情を見ない」「ないものとする」ということではない。
むしろ、「イヤな感情ほどちゃんと見る」。「そういう感情がある」と俯瞰的に認識する。
感情に飲み込まれない。
そうすることで、存在を認めてもらえた感情は少しづつ消えていく。

それでも、感情に飲み込まれそうになり、悔し思いが蘇ってきて、泣き出した自分から出てきた言葉。
「自分が何をするのかではなく、大きな存在の一部で在りたい」
そんな言葉が、腹から出てきた。
「ワタシ、ワタシ!!」というものが、重たかった、負担だった。不要だったと気がついた。

腑に落とせたことで、「私はこうしたい」「私はこれがやりたい」という感覚がなくなってくる。
一瞬「あれ?私の意志がなくなってしまう?」そんな感じがしましたが、ちょっと違う。
意志はあるのです。あるけど、ない…。

「しゃしゃり出ない」という感覚が一番近い感じがします。

「ワタシ」はそもそも自然、地球、宇宙の一部である。
ということは、「ただ在る」だけで本来は十分。在るだけで存在意義は満たされている。
「何かをするからワタシ」「何かが出来るからワタシ」ではないということ。

「何か」という形容詞的なこと・物理的な要素が「ワタシ」という存在を定義しているのではない。「何か」はなくても「ワタシ」である。
これは、頭では理解していた。それが腑に落ちたような感覚。

そして、この腑に落とす「大きなきっかけ」になったことがあるのに気がつきました。
それは、「今までと違う選択をした」ことが大きなきっかけを呼んだ気がしています。
長くなりそうなので、また次回。