他人を変えない、依存すらOKな自分にする

“依存”について、先日依存を生みださず、自立を目指すという記事をかきました。
そこからずっと頭の片隅に、置いてあるのですが、そもそも

他人を変えようとしている自分

に気がつきました。
なんて烏滸がましい。
“他人は変えるものではない”とわかっていても、忘れてしまうもんです。

そもそも、依存が本当に悪いのか。
というと、その経験すらも必要だと私は思います。
子供は、当たり前ですが親に依存します。でも、大人になるにつれて自立していくのと同じです。

基本的には、

何でも○

です。
ただ、それを本人が変えたいと思うか否かというだけで、変えたくないという人はそれはそれでいいのです。
そこを忘れてはいけないな…と反省。
すべては本人次第です。

依存は、人に対する依存だけではありません。
仕事に依存する人もいる。
ただ、なぜ依存がいい結果をうまないかというと、依存の背景にあるのは

自分の存在価値を、自分以外の何かで見出している

から。
本来は、”生きているだけ”で誰しも価値はあるのだから、存在価値なんて見出す必要もない。
でも、それを何かに認めてもらうこと、何かに執着することで、自分の存在価値を見出そうとしてしまう。
無意識にやっている人も多いと思います。

仕事でありがちなのは、”私がやらないと”という一見責任感のように見えるもの。
でも、その背景にあるのは”私にしかできない何か”を作ることで、そこに自分の存在価値を見出している。
実は、それ”私でなくてもできるし、何なら他の人にやらせたほうがいい”ことでもあったりします。
それを執着し握りしめている。
手放してしまうと自分の価値がなくなってしまうからコワイのです。
でも、それを手放さない限り、その先には進めません。仕事であれば出世もできないです。
だって、部長になりたいのに”いや、これは私の仕事です!”とペーペーがやる仕事をずっと握りしめていたら、そりゃ部長にはなれないですよね。

そして、どうしてこんなにも自分が”依存”に対して、意識が向くのか。
そこにも疑問が出てきました。
それで気がついたのは、

依存に対する恐怖

が自分の中にあるということ。
これに気がつきました。
“またやったらどうしよう”この気持ちを心の片隅でずっと持っている気がします。
共依存を経験したトラウマのようなものです。

こういう気持ちが見えてきたとき、自分の中に

その気持ちがあるということに気がつき、素直に認める

そして、

“依存してもいいよ”
OKを出す

ここで、ないものにしたり、拒否するとこの暗闇はずっとついてきます。
これで、この恐怖心は消えます。

依存することの恐怖心が、他人と深く関わることへの恐怖へも繋がる。
この気づきで、また大きなものがポロっと削ぎ落とせた気がします。

この気づきも人との関わりの中から見えてきたもの。
気づきを与えてくださった、みなさまに感謝です。

今日も心地よい一日を。
ありがとうございました。