久ひぶりの投稿です。
夏頃からとにかく動きたくなくなり、自分自身だけにとにかく集中していたくなりました。
外との接点を最小限にシャットダウン。
ここにきて、ようやく少しだけ動けるようになってきました。
今振り返ると、この数ヶ月間はきっと”今までの自分”の終活。
そして、”これからの自分”、”今の自分”への再生。
自分自身の破壊と再生。
それを行っていたのだなと感じます。
それをやっているときは、自分でも”何のために”そういう状態になっているのかは、わからないもの。
何でも後になって気づく。
気づきは必ず後からやってくる。それに気がつけることが大事。
繭になって殻に籠っていたような期間、何をしていたかというと、
“ひたすら歩く”
1日3時間。仕事がある平日は1日2時間。一人でもくもくと歩くということが習慣化されました。
何のためにやっているのか、自分でもよくわからないけれど、ただ”歩きたい”という自分の奥底から出てきた感覚のままにやる。
そして、生活リズムも淡々と毎日同じペースで過ごす。
朝4時に起き、1杯のお茶を飲み、ウサギのケージの掃除。
身支度をし5時過ぎには歩きに出る。1時間ほど歩き朝食。
仕事をして、また1時間歩きお風呂であたたまる。夕食はほんとうに摘む程度でほとんど食べない。
食事も大きく変化しました。
本当に自分に合う食は”和食”であるということがわかり、毎日パン食だったものをお米へかえました。和食は消化がいい。カラダに負担がかからず、本当に優しい食なのです。
そして、これは日本という土地で生まれ育ったからというのもあるのです。
その土地特有の食生活というのは、様々な背景があります。その土地の気候も大きく関係します。
菜食の土地には、そうなった訳が必ずあるし、それでも人が生命を維持できるようになっている。
なので、日本には日本にあった食、和食がやはり合うのだなということが、あれこれ食を試した結果、身を持ってわかるようになりました。
かといって、パンを食べてはいけない訳でもない。食べてはダメなものなどないのです。
ただ、食は大きく2種類に分かれます。
生命維持のための食
娯楽の食
この違いを自分でしっかり認識すること。
それが認識できると、今の自分は何を食べればいいのか必然とわかってくると思います。
食に関しては長くなりそうなので、また改めて書きたいと思います。
こうやって、丁寧に自分の感覚と汲み取り、淡々と毎日を過ごすことで出てきたのが、
“祈るように生きる”
という感覚。
佐藤初女さんが”生活そのものが祈り”ということを本に書いていらっしゃったように記憶しています。
この言葉も本に書いてあったかもしれません。
この意味がずっとわかりませんでした。
でも、淡々と毎日を過ごしていくと、本当に毎日を生きること、生活すること自体が祈りのように思えてくる。
それは、単純に”毎日のルーティンをただ過ごす”というのとは全く異なるもの。
何も意識せず、考えずにルーティンを繰り返すのと、
“意図して”繰り返す、”意識して”繰り返すことは全くそこから見えてくる世界は異なります。
自分で意図して”繰り返す”という選択をしているという意識のもとにやることが”祈り”という感覚に繋がるのだと思います。
そして、本当に祈るように毎日を過ごしていくと、穏やかで平穏に過ごせる日々が、本当に幸せでありがたいと思えるようになる。
本来、人は生きているだけでよい。
何をするかなど本当はとても小さなこと。
doよりもbe
何をするかよりも、どう在るか。
そこが人として本質なのだと思います。
不定期になると思いますが、また徒然と日々感じていることを書いていきたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。